(2014年筆)
超古代史を追求する私たちにとって、弥生時代以降が歴史時代であるならその前の縄文時代・旧石器時代はどのような位置づけになるのでしょうか。こうした問題意識は、従来アカデミックな歴史論者からも(また、超古代史研究者の間からも)提起されてこなかったようです。それは、戦前に端を発する「日本文化の基底はコメ作りに代表される弥生文化であり、縄文時代は遅れていた・停滞していた」とする一面的な歴史観があったからではないかと思われます。こういった考えは縄文と弥生を人種的にも文化的にも断絶したものと捉える傾向になりますが、そのひとつの現われが、歴史人口学の鬼頭宏による縄文以降の推定人口ではないかと思われます(2007、下図)。
縄文晩期の人口は列島全体で8万人にまで減少し、それが弥生の初めにかけて急上昇し、短期間に59万人にまで至っているのが見て取れます。しかしYES/NOで視ると、縄文の人口はこれより圧倒的に多かったという結果が出ており、鬼頭説に疑問を呈する学者も最近出てきているようです。彼らの根拠は、①鬼頭説の元になったデータが1965年当時の遺跡発掘状況に依存していること、②人口密度の算定で、ナラ林圏内の東北が高く照葉樹林圏内の西日本が格段に低いが、最も人口密度が高いとされる関東地方が照葉樹林圏に入っているという矛盾、③近畿には関東のような平坦な台地状の地形があまり見られず、この地形の差が遺跡の保存・発見に差をもたらしている可能性が高いなどの点です。
個々の理由をあげると以上のようになりますが、こうした論議の背景には青森県三内丸山遺跡をはじめとする新たな発見により、従来の縄文に対するイメージが覆されたという事情があるようです。すなわち、縄文人は獲物を求めて放浪していたのではなくある地点に代々住みついて生活していたこと、クリやドングリ・ヒョウタンなどの有用植物が栽培されていたこと、現代につながる高度な漁業の痕跡、さらに近海だけとはいえない丸木舟による航海術と全国的な交易の証拠(黒曜石やヒスイ等)などが、彼らの安定した生活基盤を物語っていることが分かってきたのです。また、この時代にイネがあったことも、岡山県美甘村の姫笹原遺跡(約5000年前)から発掘されたプラント・オパールの事例から確実視されております。そして人口推計に関しても、三内丸山は従来の常識をはるかに上回る大規模な集落だったことが分かり、また鹿児島県栫ノ原遺跡(11000年以前)の発見により、東日本中心に考えられていた遺跡数についての常識も打破されたといえるようです。
縄文の人口がなぜそんなに問題なのかというと、渡来した弥生人の数にもよりますが、縄文人の数が多かったか少なかったかにより二つの文化が連続したのか断絶したのかが推測できるからです(YES/NOでは、縄文人と弥生人との混血もあまり進まなかった)。これは外来者と先住民の間で、その後の言語がどのように形成されるかという問題でもあり、
①外来者の数が少ない時→外来者が移民型言語習得過程を経て融合する
②外来者の数が大量な時→外来者の言語が先住民の言語を圧倒し、周辺部へ押し込んでしまう(南北アメリカのようなケース)
③先住民に匹敵するほどの外来者が来た時→混合言語が形成される
という3つの場合に分けられるとされます。この問題に関してもさまざまな論議がなされており、誰の説を採るべきかをYES/NOで視たところ、比較言語学の小泉保氏の説が最も信憑性が高いという結果が得られました。
氏によれば、
「戦後五十年の間に、日本の考古学は縄文文化の雄大な輪郭を掘り出し続けてきた。だが、縄文時代の言語については言語学者も国語学者も口をつぐんだままであった。怠慢といわれても仕方がない。それは、奈良時代の言語の母親筋に当たる弥生語が現代日本語の祖先であるという仮説に縛られていたからである。そして、弥生語以前には素性の分からない多様な言語が話されていたが、弥生語によって統一されたと思い込んでいたのである。それは戦前の考古学が縄文時代を無視していた態度と共通している。このため、日本の周辺で用いられているいずれかの言語と弥生語を関係づけようとするいくつかの系統説が主張され、相互に決着をみない」
のが、現在の日本の状況だとされています。そして、
「系統論はいきなり日本語の祖先を特定しようとして、日本の北方に南方に親類縁者を探してきたが、結局それらしい相手を見つけることは出来なかった。言語の血縁関係を認定するのには、『規則的音声対応』という判定法がある。この方法により身元の証明ができたのは琉球語のみである。」
では言語学者はどうすべきかといえば、
「日本語の系統を探求するに当たって、先ず曾祖父の言語すなわち縄文時代の言語の解明が大前提をなすと筆者は考えている。弥生(時代の言)語が縄文(時代の言)語を駆逐して、それに入れ替わったとする証拠は何もない。」
また、言語学的解明は
「考古学と人類学の実績に裏付けられたものでなければならない。これを無視して、いきなり日本語の元祖の身元を割り出そうとすると、牽強付会にみちた空理空論になる恐れがある」
こうした前提で考えてくると、
「縄文時代には、すでに前期において日本列島にはひろく縄文人が存在していて、そこで生活を営み、土器の生産に従事し、相互に交流していたという事実がある。ということは、縄文社会全体がかなり均質化していたと考えざるを得ない。もちろん、地域差はあったにしろ、もはや異質言語の乱立という事態は想定しにくいと思う。」 「一万年の長きにわたり日本列島全域で縄文文化の花を咲かせた南モンゴロイド系の縄文人は、二千年ほど前に西方から侵入してきた北モンゴロイド系の渡来人に列島の中央部を侵略されることとなった。日本列島の言語を探求する者は当然こうした歴史的背景を踏まえて考察すべきである」 との結論になります。
こうして小泉氏は、具体的な考察に入っていくのですが、人類学的に見ても縄文から弥生・現代に至るまで、日本人の体質を一変させるほどの大規模な混血はなかった、すなわち異質の民族が外部から大挙して列島に侵入し先住民を征服した様子はなかったとされています。YES/NOの結果もこれと同様で、
「日本列島における縄文時代は、異民族の侵入という人種的葛藤のない穏やかでゆるやかな時間の推移の中にあったと思われる。」
という氏の判断が正しいと思われます。さらに、
「周辺言語との同系性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない。」
とされるのです。
また、出雲の方言と東北弁が類似していることを合理的に説明し、弥生語の特色(方言分布・アクセントの発生・特殊仮名遣いの成立・連濁現象・四つ仮名の問題等)も内在させているような形で縄文語を復元する必要があり、そのためには長さ1500㎞(琉球列島までだと2500km)に及ぶ列島内の同系方言群を考察すべきだとされ、こうした方言群に対する比較言語学的手法の適用が小泉氏のアプローチの真骨頂だと思われます。
氏による音韻的アプローチはやや専門的になりますので省略しますが、綿密な研究・考察の結果得られた後期縄文語の方言分布を表したのが右図であり、この時点で縄文語は裏日本・表日本・九州縄文語に大別され、また琉球縄文語は九州縄文語から分派したと推測されます。そこへ北九州から入ってきた渡来人が、九州縄文語を基にして弥生語を作り出したと氏は主張するわけです。そして、弥生語の成立に当たっての音韻的特徴が考察された後、
「形態や統語の面では大方縄文語の伝統を受け継ぎ、さほど大きな変更を加えることはなかったであろう」
という結果が導かれるのです。
小泉氏も語っているように、あとは前期縄文語がいかにして成立したかという問題が残されるだけとなりますが、一万年以上前にさかのぼって由来を探求することは事実上不可能に近いようです。いずれにしても氏の研究は、超古代史を追求する私たちにとって非常に大きな収穫だと考えられます。なぜなら、縄文人の人類学的解明には未だ種々の問題が残っているものの、言語=文化圏としてのこの時代が特徴づけられたことにより、超古代からの何らかの民族的記憶や伝承が中央から駆逐された辺境エリアに残っているのではないかという推測が成り立つからです。
「縄文語は悠久の昔、一万年ほど前に形成されてから継続使用されてきたが、二千年前に渡来人の勢力下で変形されて弥生語を生みだすにいたった。やがて、縄文語は文化語としての弥生語に制覇されて日本列島の周辺部に残存することとなった。周辺部とは東北地方と琉球列島(のほか、島根県宍道湖周辺と富山県西部・石川県能登半島―筆者注)を意味する。」
しかし、これらの地方を当たってみた結果は現在の所以下の通り、この課題については引き続きアプローチすべきかと考えられます。
①東北地方・・・・今のところ有力な発見なし
②富山・能登・・・ 同上
③島根県・・・・・
「記紀」の記述と異なる「出雲国風土記」があるが、これについては次項で
④琉球列島・・・・
戦前の伊波普猷に始まり、柳田国男・折口信夫へと受け継がれる研究の中でも指摘されていた琉球神道と日本の古神道との類似性、また琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球を中間において遠く南方の創造型神話と一脈の関連を持っていることを指摘した松本信廣の見解など。
戦後は、岡正雄が提起した日本の宇宙開闢神話についての仮説が、その後、大林太良によって具体的展開を見る。大林は日本の古典神話と奄美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、流れ島・天降る始祖・死体化生・海幸彦に関する伝承神話を比較検討し、次のように述べている。
1.記紀に親縁の諸モチーフは南西諸島に残存している。
2.南西諸島の伝承は、記紀にまとめられる前の共通の母胎から分れて、南西諸島において保存された可能性が大きい。
3.記紀と南西諸島の比較によって、記紀以前の日本神話の古い形を再構成出来るかもしれない。
4.南西諸島の伝承は、構成的にも記紀の神話より一貫しているのみならず、ポリネシア神話との比較から考えても、南西諸島の伝承がより古い形を保存しているだろう。
5.一連の開闢神話に含まれない若干のエピソード、たとえばオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島に現存している。
伊藤幹治は、大林の試みを評価したうえで、双方の神話の出自=系統が必ずしも一様ではなく、こうした一致や不一致が日琉神話研究の将来の課題になるだろうと指摘している。
【参考書籍】
・Wikipedia
・小林惠子、井沢元彦「『記紀』史学への挑戦状」(現代思潮新社)
・小林惠子「興亡古代史」(文芸春秋)
・布施泰和「『竹内文書』の謎を解く」(成甲書房)
・小林保「縄文語の発見」(青土社)
・岡本雅享「民族の創出」(岩波書店)
・鳥越憲三郎「出雲神話の誕生」(講談社学術文庫)