(2014年筆)
さてここで順不同となりますが、先ず弥生時代以降の日本についてお話していきたいと思います。と申しますのは、この時代についての確実な把握がなされない限り、虚々実々のさまざまな論者の跋扈を許してしまい、超古代史への展望も挫折せざるを得ないからです。
日本古代史についての我が国の歴史学者の一般的態度をみると、8世紀以降の資料は「記紀」一辺倒であるに対し、6~7世紀までの時代についてはもっぱら考古学的遺物に基づく推論を述べているにしか過ぎないといえます。その理由は、8世紀初頭に成立した「記紀」が、史実を神話に託したり歪曲したりしているので、歴史資料としてはそのままでは通用せず学問的価値はないとされているからです。その結果、日本古代史にはあいまいな推量の余地が大幅に広がり、「記紀」だけ読んであとは何か考古学の本を見てひねくれば一つの説が出来上がるような素人的風潮が蔓延していると看做さざるをえません。
そうした傾向の変わり種としていわゆる「古史古伝」研究者(?)という立場があり、これらの人々は、
「我国の超古代を扱った文献には、『記紀』という官製の(勝者の)歴史のほかに民間の文献が存在しており、それらはいずれも記紀以前に書かれたか、オリジナルは残っていないが後世それを編纂・補足したものであり、これらこそ神代・上古における日本の正史にほかならない」
と主張しております。つまり超古代の日本で最初の文明が作られこれが世界に普及していったとする考え方ですが、序論でも述べたように、これらの研究者に共通するのはイデオロギー絶対史観であり、どうも考古学的整合性や地質学的合理性などはまったく問題にされていないといってもよいのではないかと思われます。
アカデミックな歴史観にも飽き足らず、かといって古史古伝研究者の言うことも鵜呑みにできない私どもの立場としては、何か信憑性の高い本はないのかと思ってYES/NOを試みてきたところですが、このたびやっとそうした著作に巡り合えたのです。小林惠子氏の一連の著作がそれであり、一読して大いに納得できる緻密な説得力に満ち、また歴代の天皇を羅列するにすぎない従来のアプローチに比べると、読後にドラマティックな人間像が浮かび上がってくるリアリティを感じたのでした。
氏の問題提起は、
「日本の資料が不備というだけの理由で、紀元後6~7世紀に至る日本を、神話と考古学のみに封印して済むものだろうか」
というものです。また、「記紀」の位置づけに関しても、
「国家としてのアイデンティティを確立するために、-(中略)-史実を歪曲しているのは当然である。-(中略)-したがって『記紀』のどこに史実が隠されているのかを知るには他国の資料や後世の伝承によるしか方法はない。」
とされます。天皇家とこれに密着した藤原家の勢力が弱まった平安末から鎌倉時代にかけて、「記紀」とは異なる内容の書(「扶桑略記」・「帝王編年記」等々)が出回り後世に伝えられたわけですが、専門家はこれらも無視し無条件に「記紀」を正しいとしています。そこで、そうした固定観念を打ち破るには納得できる根拠がなくてはならず、それが中国・朝鮮半島の資料であると氏は主張するのです。
例えば、縄文晩期にあたる紀元前1000年代に周が建国した頃、倭人が朝貢してきたことが「論衡」という中国の資料に残されており、また漢代に書かれた「山海経」という史料にも紀元前4~3世紀の倭に関する記述が見て取れるなど、考古学的遺物や歴史の流れを総合判断していけば、
「縄文晩期のこの時代になると、すでに列島は『倭』として史書に記録されるという、狭義の意味の歴史時代に入っていたのである」
という結論が導かれるわけです。ここから氏は、日本の研究者の間で夙に有名な「魏志倭人伝」を含む「三国志」全文はもとより、「晋書」「宋書」「魏書」など中国南北朝の正史、さらに「資治通鑑」「冊府元亀」「太平御覧」などの全体を読破し、その結果これらの記述と「記紀」の記述とが関連していることを発見するに至るのです。また、中国の資料と「記紀」を結ぶ接着剤として朝鮮半島の史料である「三国史記」も非常に重要であり、そこには中国の資料にはない極東地域での列島との交渉が具体的に記述されているというのです。
このようにして紀元前4~5世紀以降紀元7世紀までの古代史が極めて明瞭に解読された結果が、1980年代から90年代にかけての氏の十数巻に上る著作なのです。一読すれば驚かされますが、読み進めるうちに氏の綿密な考察により、7世紀までの倭国王(天皇)はすべて大陸・半島勢であったこと、日本人は単一民族ではなく他民族国家であったこと等、従来の「王朝交替説」や「多元王朝説」でも不十分だった古代史の闇の部分が単純明快に整理されていく爽快感を味わうことができると申しあげられます。どうやら私たちは、明治維新以来刷り込まれた万世一系の国家観や日本的アイデンティティを、再検討しなければならないようです。
しかし、だからといって氏が最初から何らかのイデオロギー的立場に立っていたというわけではないことは、戦後知識人に一般的な縄文文化に対するユートピア的解釈を批判する、次のような一文に明らかだと思われます。
「縄文時代は夢のような戦いののない国だったと、今、おっしゃっています。私は、富があれば、もう即身分制ができて、富の不平等があり、その富を守るために戦いがあったと思っています。」
「三内丸山には、もう私有財産が蓄積されているわけですよ。」
冷静なリアリストである氏の手によって解明された日本古代史の詳細は直接氏の著作にあたっていただくか、あるいは氏の「興亡古代史」を基に筆者が作成した年表を参考にしていただきたいと思いますが、氏のアプローチで重要なのは次のことだと考えられます。一つは、史料の読解に当たっての国是による改竄や讖緯説的表現(呪術的暗示)を弁え、歴史を表からだけでなく裏からも読み取れる能力の必要性です。第二点は-そしてこれが決定的に重要なのですが-、
「従来の日本古代史学は、あまりに古代を列島内に閉じ込め、国内諸勢力の攻防や盛衰興亡に限定して考えていたと言わざるを得ない。日本といえども世界史の中の一国なのである。人が住むようになった旧石器時代から大陸との交流があったのだ。東アジア、否、世界を視野に入れて日本の歴史を展望したいものである。」
という歴史観だと思われます。この言葉は直接にはアカデミックな歴史学者に対する批判ですが、同時に「古史古伝」研究者にも当てはまり、我が国だけが独自の法則に基づいて動いているような錯覚を戒めるものと捉えられるのです。特に、超古代史を考える上で大切なのは、従来からの私どものYES/NOの結果と氏によって明らかになった弥生以降の歴史的事実を重ね合わせて、「古史古伝」研究者の暴走を食い止めることが必要であると思われます。
先ず、ウガヤフキアエズ朝と神倭朝との関係ですが、YES/NOの結果では、ウガヤフキアエズ朝は存在しなかった、また神武も実在しなかったと出ておりましたが、小林氏によっても「記紀」の神武の話には3つのモデルがあったとされております。
①倭へ亡命した句麗王大武神、大物主勢の後援で丹波に到着後、北九州の諸国を滅ぼし一大強国奴国を建国、後に漢から金印「漢委奴国王」をもらい、57年に新羅を簒奪し辰韓王脱解となる。
②月氏系ニギハヤヒ系勢力が南九州に定着、同族の半島亀茲系加羅国と連合し奴国を圧倒し、辰韓を攻める。2世紀前・後半には北九州を制圧し、その後瀬戸内から大和盆地に入る。この頃から倭国ではニニギ系勢力と旧勢力との戦乱始まる(「記紀」のいうニニギ系天孫降臨型神武)。
③247年高句麗東川王、東倭や狗奴国と連合して邪馬臺国を攻め、卑弥呼死亡 → 東川王が男王となるが諸国乱れ、邪馬臺国は臺與を形式上の女王とした東川王・東倭・狗奴国連合に組み込まれる → その後「東川」王は「東遷」し瀬戸内から安芸に向かうが、248年没(「記紀」の神武東遷の話)。
次に、「竹内文書」に記された神武以降の出来事を見ていくと、
①神武の時、老子来日 ②安寧の時、 孔子来日 ③孝安の時、孟子来日 ④孝霊の時、徐福来日 ⑤崇神の時、天照大神を最高神とする ⑥垂仁の時、キリスト来日。天照大神の御神骨・御神体を伊勢五十鈴川上流に祭る。伊勢太神宮を天照皇太神宮と呼ぶ ⑥景行の時、武内宿禰天空浮船で万国巡幸。キリスト、青森で死去 ⑦仁徳の時、武内宿禰死去 ⑧武烈の時、神代史と神宝の護持のため平群真鳥を越中に派遣--(以上、布施泰和「『竹内文書』の謎を解く」より抜粋)--
などとなっております。しかし、小林氏による年代(右図)と比べると違いがあり過ぎ、結局これらは後世に、「記紀」の天皇即位年に大仰な事柄をあてはめただけと考えられます。従来のYES/NOでも、「記紀」と「古史古伝」(「竹内文書」「宮下文書」)の成立年代を調べたところ、「記紀」の方が古いという結果が出ていたわけですが、小林氏の研究により、この点もより明確になったと申しあげられます。
さらに、「古史古伝」研究者の中には、伊勢神宮の成立に関して、
「崇神天皇の時、皇位を狙うものが出てきたので三種の神器の分散を図るため豊鋤入姫に託して、大和の笠縫村へ赴かせた。次いで垂仁天皇の時、年老いた豊鋤入姫に替わり倭姫が伊勢の五十鈴川にて宝物を守った」
とと主張する者もおります。「書紀」では「はじめ天照と日本大国魂神を同じ神殿で祀ったが、共に住むわけ にいかなくなり、天照を豊鋤入姫につけて倭の笠縫の地に祀る」、また、「倭姫に替えて祀らせる」とある部 分です。しかし、小林氏によれば、290年代半ば成立の崇神朝とは匈奴の劉氏による列島支配であり、大彦(崇神天皇)は、大和の神武勢を吉備津彦とともに制圧したが、埼玉志木(稲荷山古墳)に本拠を置かざるを得ず、大和には東川王以来の神武系が残存した。崇神勢は伝統的勢力を根絶やしにするわけにはいかず、祭祀権を臺與(卑弥呼の子)に、大和の局所的統治権をオオタタネコに与え、形式的倭国王として存続させたとされるのです。また、次の垂仁・景行は共に鮮卑の慕容氏系王朝ですが、垂仁は遼東に在って半島・列島を間接統治したため、崇神系の祭祀権・大和の局所的統治権はそのまま温存された。しかし、大陸において劉氏が滅亡するに及び、次代の景行=慕容儁=ホムツワケ=が列島に至ると、先ず天照の祭祀権を崇神系から奪取することで列島制覇に臨んでいくとされています。強力なヤマトタケル軍事力を背景とした転換がここで行われたと考えられます。
また、「古史古伝」研究者がよく話題にする竹内宿禰にしても、何百年も長生きをしたわけではないようです。彼はヤマトタケル=景行=慕容儁の四男であり、330年代には全国制覇に当たって行動を共にするが、慕容儁の子仲哀が来てからは仲哀に仕えた。また、神功一族が新羅攻撃を主張した362年、新羅と協調しようとする仲哀は神功皇后・竹内宿禰と対立し、百済に退去して後に近肖古王となるが、この時竹内宿禰は神功側につき神功皇后と結ばれることになる。そして369年、神功勢が半島南部を制圧すると、竹内宿禰は仲哀=近肖古の後継者として百済に入り、375年に百済王近仇首となる。しかし382年、神功勢が列島に着いた符洛=応神と手を結んだことにより、384年に百済を追われ、北九州で再起を図るも息子の甘美内宿禰に密告により敗北し、命だけは助けられたのが398年。その時既に75才以上、当時としてはかなりの長命だったと考えられますが、仁徳期(413年以降)の死というのは確認できないところです。
結局、現在残っている「竹内文書」の位置づけは、神代における事跡はともかく、歴史時代以降に関しては全くの偽書であると考えられます。またその他の信憑性についても、「宮下文書(の大部分)」「上記(うえつふみ)」「秀真伝(ほつまつたえ)」「九鬼(くかみ)文書」「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」「カタカムナのウタヒ」「三笠紀(ミカサフミ)」等がNOと出た次第です。
ここまでは小林氏の範疇であり、
「『日本書紀』には『帝王系図』が付いていたという--(中略)--新羅や高句麗から来て国王になった者や、民間から帝王になった者があるという。それを延暦年間に焚書させた」
「『神皇正統記』に有名な言葉として、昔、日本は三韓と同種だったけれども、桓武天皇のときに、全部それを焼き捨てたという」
といったことから推測しても、弥生以降に関しては私たちは氏の説を採るべきだろうと思われます。しかし、一方でそうした歴史の改竄や古文書の焚書があったとすれば、いわゆる「古史古伝」にもやや分があるわけであり、記述をそのまま鵜呑みにする愚は避けたいものの、上古以前についてはすべてをYES/NOの対象として視ていくというのが妥当だと思われます。
【参考書籍】
・Wikipedia
・小林惠子、井沢元彦「『記紀』史学への挑戦状」(現代思潮新社)
・小林惠子「興亡古代史」(文芸春秋)
・布施泰和「『竹内文書』の謎を解く」(成甲書房)
・小林保「縄文語の発見」(青土社)
・岡本雅享「民族の創出」(岩波書店)
・鳥越憲三郎「出雲神話の誕生」(講談社学術文庫)