記紀神話からの脱却

(2014年筆)

 超古代史を探求しようとする私たちは、従来アマテラスやスサノオといった存在、またイザナギ・イザナミといった存在について調べていたのが実情でした。それらがどこに由来するのか、いつ人間とかかわったのかを考えるにしても、常にそうした神名で表現していたような気がします。また、古史古伝研究者もよって立つ文献は異なれ、キーワードはやはりカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)やウガヤフキアエズ、あるいはアメノミナカヌシやタカミムスビ・カミムスビ、はたまたクニノトコタチ・アマノトコタチなどとなっているようです。ことは正統的な学者においても同様であり、スサノオの淵源を琉球神話に求めたりアマテラスの由来を縄文のシャーマニズムに求めたりする者がいるくらいですので、まして一般国民にしてみれば記紀神話が常識であると長年思ってきたのも無理からぬことでしょう。

 しかし、今回弥生以降の歴史を再検討し縄文の世界までたどり着いた私たちが得た結論は、記紀神話は全くのねつ造であり、各地の神話・伝承を換骨奪胎して編集された大本営発表であるということでした。

 岡本雅享氏によると、日本神話は元々「民族的視点から眺めると、主として天孫民族・出雲民族・南方民族としての海人族の神話から成っている」のであり、「天照大神(天孫系)とスサノオノ命(出雲系)とを、ともにイザナキノ神の子とすることによって、高天原神話と出雲神話とを結合している事実、またヒコホホデミの命(天照大神の曽孫)が海神の女、豊玉姫を娶ったとすることによって、天孫系神話と筑紫系神話(隼人族の伝えていた南方系神話群)とを結合している事実などは、その著しい例である」とされます。

 こうした批判は従来からもなされてきたところだが、より注目すべきは記紀神話と出雲神話との矛盾だと氏はいうのです。「出雲国風土記」の記述と記紀神話の記述とが全く違うというのは筆者にとっては初耳でやや驚きでしたが、以下氏の指摘を率直に聞いてみたいと思います。

 「スサノオは、高天原では数々の乱暴を働き、出雲へ降ると八岐大蛇を退治する、荒ぶる神として描かれている。しかし出雲国風土記におけるスサノオは、サセの木の葉をかざして踊ったとか(大原郡佐世郷)、国土の果てまで巡った後、安来に来て『心が安らかになった』と言ったとか(意宇郡安来郷)、『この国は小さいが良い国だ」と言って自分の霊を須佐の地に鎮めたとか(飯石郡須佐郷)、実に平穏な神だ。」
 「オオクニヌシの因幡の白兎(古事記)は風土記になく、出雲創世神話であるオミズヌの国引き(風土記)は記紀にはない。」
 「杵築(出雲)大社の起源を語る神話も、記紀と出雲国風土記では違う。記紀は大社の創建を国譲りと関連付け、大国主が国(及び現世の政治)を譲り、幽界へ退く条件として出してきた住居(宮)が大社だとする。しかし、八束水オミズヌ命が国引きを行った後、多くの神々が杵築に参集して、天の下造らしし大神の宮を築いたとする出雲国風土記(杵築郷の条)とは、相容れない。」
 「そもそもスサノオの命とオホナムチの命とは何らの血縁で結ばれていない神であり、またスサノオがアマテラスの弟でもなく、オオナムチがスサノオの子でも子孫でもない。ところが記紀では、スサノオは天つ神の御子として三貴子の一に位置づけられた。・・・それより大事なのは、スサノオの命の児孫としてオホナムチの神がくり入れられたことである。・・・あえて両神の『血のつながり』を強調しようとする意図は、姉のアマテラス大神の後裔ニニギの尊のために、弟のスサノオの命の児孫のオホナムチの命が自国を委譲するのは、理にかなったことなのだという大義名分を立てるためである」

 岡本氏の指摘はさらに続き、記紀神話を更に改作したのが明治政府であり、

 「戦前の教育では、記紀神話をそのまま教えたのでもない。例えば、記紀ではスサノオは(後悔したのではなく)贖罪をさせられ、手足の爪をはがされ、追放されている。オオナムチは、あっさり国譲りに同意したのではない。古事記や日本書紀の本文では、長い間高天原からの要求に従っていないし、高天原が最初に派遣したアメノホヒ、続くアメノワカヒコまでもが、出雲側についてしまう。また剣を抜いて国譲りを迫る最後の使者タケミカヅチに対し、出雲側ではタケミナカタが戦いを挑み、敗れる(記)。オオナムチの国譲り承諾後、使者はその他の従わぬ神々を(草木、石に至るまで)斬殺し、葦原中国を平定する(紀)。いっぽう、日本書紀の一書(第二)では、『国を天神に奉るか』と迫るフツヌシ、タケミガヅチに対し、オオナムチが『私が元から居る所へやって来て何を言うか。許せぬ!』と突っぱねたので、使者は一旦帰り、高天原側が改めて国譲りの条件-①現世の政治は皇孫が、幽事(=神事)はオオナムチが受け持つ、②オオナムチの住む宮殿を造る-を出し、オオナムチが同意したと記している。」
 「しかし、『初等科修身』(小学校3年用、1941年)の『大神のお使(国ゆづり)』でも、こうした点は一切書かず、極めて平和的に、アマテラスの権威・仁徳とオオクニヌシの恭順・畏敬によって、『国ゆづり』が行われたように、記紀神話を作りかえている。」

とされるのです。こうして記紀神話が歴史教育に導入され、万世一系の統一国家としての皇国臣民意識が涵養されたことが、私たちの歴史認識や単一民族国家観と深く結びついているのだというのが、氏の主張の本筋だと思われます。

 しかし、より深刻な問題は記紀の成立がそれぞれ712年・720年であるに対し、「出雲国風土記」の成立がそれよりかなり遅れる733年であることです。通常中央権力が編纂した歴史と地方の国造が著した史書との内容が矛盾する場合、その軋轢はいかに繕われるのかという問題がここに出てくるからです。ましてこの場合は地方の「風土記」作者は既に中央の「大本営発表」を知っている状態ですので、当然検閲やそれを見越した自主規制などがあったと考えるのが妥当でしょう。そうすると超古代史に関する情報を「出雲国風土記」に求めるのは、所詮無駄なことだとなってしまうわけです。そこで信憑性のある文書を探したところ出てきたのが、古代史学者の鳥越憲三郎氏だったのです。

 氏の言い分も、記紀の「出雲神話」は大和朝廷によって作られたものであって出雲の伝承ではないというものですが、そのねつ造の過程や歴史的背景、さらに当事者の心理にまで踏み入って導き出された結論は私たちにとってはさらなる驚きでした。皇国史観の呪縛が、冒頭でも述べたように古史古伝研究者から普通の研究者、さらにそれを批判する側の上記の岡本氏にまで浸透している現状とその理由が明快に提示されている点に、氏の本領が発揮されていると思われます。

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 出雲国風土記と記紀との最も大きな違いは、神話の舞台が風土記では出雲国の東部意宇郡の意宇川流域であるに対し、記紀では西部の肥川(斐伊川)を中心として展開される点だと氏は指摘します。肥川を舞台として須佐之男命やオオクニヌシ神(オオナムチの命)が活躍する出雲西部は、文化的・政治的には後進地域であったし、出雲国造の館や国庁も東部の意宇郡にあり、古墳一つをとってみても両者の差異は明らかなのにもかかわらずというのです。そして、意宇川上流には出雲国造の祖神たる熊野大神の社もあるのに、記紀ではなぜか一言も触れずに抹殺していると指摘されます。

 記紀では語られない出雲の国引き神話は、八束水臣津野神(ヤツカミズオミヅヌ)という水の神によるものであり、国引きを終えたこの神が意恵(オエ)と言ったのでこの地を意宇と呼ぶという由来が記載されているのに、記紀では一切言及されていない。そしてこの神は水源の熊野山(現在は天宮山~天狗山と呼ばれる)に鎮座する熊野大神櫛御気野命(クシミケヌノ命)が春から秋まで稲田を守護するために里へ降りてくるときの姿である。大化の改新後の国司の派遣により国造の権威が低下したとはいえ、700年ごろまでは熊野神社が出雲を代表する大社であったし、神郡として国造が奉仕したのもこの神社であった。杵築大社(出雲大社)はこの時まだ創建されていなかったのだ。

 この頃の氏族構成をみると、国造出雲臣の勢力が西部の神戸・出雲郡を除く地域にあまねく広がり、しかもこの両郡に多い神戸臣・日置部臣も血統的には出雲臣の同族なので、出雲国一帯は政治的にも安定し、中心部の意宇川流域と神戸・日置部両氏の住む神戸川流域とが開かれた地域だった。ところが、国造果安(708~721年)の時代に、国造家が意宇郡の故地を見捨てて、新開の出雲郡杵築郷に移転したのだ。

 天平年間でもまだ杵築の地は部民のみが農耕に従事した土地柄で、国造が移ったのはそれより前なのだから、一国の国造であり大領である者がなぜ新開の一寒村へ移らねばならなかったのか、ここに出雲の神話と歴史の謎を解く鍵があると氏は主張するのです。そして、私たちが最初に抱いた疑問が的中していくのです。

 ところで、出雲国造の関与する朝廷儀礼に「神賀詞(かむよごと)」というものがあり、その内容は正史である記紀に則って天つ神の子孫としての天皇統治の正当性を述べるとともに、主権の安泰を保証するものだということです。そして、その記録が最初に見えるのが716年=「古事記」成立の4年後、国造果安の時であったというのです。以後、この儀式は出雲国造の就任後必ず行われる国家行事となったのですが、ここに鳥越氏は正史刊行後の国造の自主規制の跡を見いだすわけです。しかも、最初の時は国造果安の申し出による公算が大きく、

 「この時出雲国造は京へ登って神賀詞を奏上し、ひいては『古事記』の出雲神話を裏付ける大国主神の大社創建を、朝廷に申請したのではなかったであろうか。そしてその許可を得て、国造果安が意宇から杵築へ転居したものと考えられる。」
 「出雲国造は彼らの古来から信奉してきた神話とは内容を異にした記紀を見せられたわけであるが、朝廷との関連をもって、一族の安泰を図ることが第一義であり、そのため先に述べたように、記紀が取り上げなかった熊野大神を見捨てて、大国主神を祀る記杵築大社の創建とその神主として神事を専掌することをみずから買って出たのである。そしてその後は杵築大社の経営に専念し、大社を発展させることによって、国造家は皇室神話の一翼を担うものとして、国家的保護を受けてきたのである。」

 当時の自主的改ざんは出雲国造家の系譜等にもその痕跡が認められるようですが、そうした自主規制にもかかわらず、古式を伝える重要な神事である「火継」の行事だけは旧地の意宇大庭で執り行われるわけです。また年に1回熊野大社から出雲大社の宮司に火を授ける「鎮火祭」も行われていますが、これもここに由来します。

 では、スサノオやオオクニヌシはどこから来たのかと言えば、出雲国風土記の飯石郡の条に、スサノオの名の見える神戸川沿いの小盆地が記載され、肥河沿いの小盆地にクシナダヒメの名が伝わっているというのです。また、隣の大原郡の条に大蛇退治に似た話が伝わっており、これらが肥河沿いの人々によって中央に伝えられた可能性が高いと鳥越氏は主張します。ただ、風土記におけるスサノオの記述が記紀と比べ大幅に少ないのは、やはり国造家の祖神ではないという事情が関係しているのではないかと考察されます。たとえば、熊野大社の神名にも抵抗の跡が見え、元々のクシミケヌ神の前に、「イザナギのヒマナコ」と付けることにより、この神をスサノオの別名としたことで彼らの信仰を守ろうとしたのだといわれるのです。

 また、オオクニヌシは杵築郷の開拓農民の間で祀られた地主神であったわけですが、その当時は記紀に描かれたような壮大な伝承は全くなかったとされます。では記紀の膨大なオオクニヌシ説話はどこから来たのかと言えば、全国各地の説話の寄せ集めなのだと氏はいうのです。国譲りとは皇祖神アマテラスへの服属であり、そのためにはオオクニヌシが偉大であればあるほどインパクトが大きいことは納得できることです。記紀の編纂者にとって重要だったのは天皇家の正統性を主張することであり、出雲の正統な神話を伝承しようなどという意図は一切なかったとされます。 記紀の国譲りに登場する神はすべて他地方の神であり、政権の座に座る氏族の神が征服者となって語られているようです。

 ・葛城、鴨の二社→事代主命・味鉏高彦根命・下照姫など
 ・常陸、鹿島神宮→藤原氏が祀る建御雷神
 ・信濃、諏訪大社→健御名方神

天孫降臨に関しては、

 ・北九州宗像・安曇族の日向神話→ニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアエズ命
 ・九州薩摩半島の隼人族の神話→コノハナサクヤヒメ(ニニギの妻とする)

 以上のように記紀神話と出雲国風土記の矛盾が説明されますが、鳥越氏はさらにこうして出来上がった神話によって、以来日本人のほとんどが強大な出雲国が大和朝廷成立以前に存在したという誤解を持ってしまったと批判するのです。

 「これは一般の国民だけではない。専門に古代史を研究する学者間においても、誰ひとり疑うものもなく、大和朝廷に対立するほどの強力な出雲国が存在したものと信じ切っているのである。そして強大な出雲国を納得するために、あえて韓国との交通交易があったとみたり、中国山脈の砂鉄による優秀な文化が栄えていたものだと述べてきた。しかしそれは、とんでもない錯覚による幻影を追うていたものであった。」

 記紀神話の1/3を占めたり、その内容がドラマティックであるところから私たちは出雲を特別視するきらいがあったわけですが、考古学的位置づけでいうと確かに出雲は他地域と比較すると格段に低いようです。しかし、上述の出雲国造のような系譜や伝承の改ざんが記紀刊行後に多くの地方氏族で行われ、出雲国造の語る「神賀詞(かむよごと)」が国家行事として定着し、さらに杵築大社(出雲大社)が東の伊勢神宮と並び立つほど人々の信心を集めた結果、元々の出雲神話の素朴さは完全に忘れ去られたのではないでしょうか。それに拍車をかけたのが、明治政府によるさらなる改作であったと思われ、アマテラスを頂点とする皇国史観が徹底されていったのです。因みに、皇室が伊勢神宮を参拝するようになったのは明治以降のことであり、それまでは一切そのような行事がなかったというのが実情なのです。

 超古代史を考える際に重要なのは、古史古伝研究者もほとんどがこうした事態に気付かずに記紀編纂者の思惑に足をすくわれていることであり、どんな研究もこれでは記紀の呪縛から脱することができないと申しあげられます。その証拠に、以下に竹内文書の歴代の天皇名を記した一例をあげますが(布施泰和「『竹内文書』の謎を解く」より抜粋)、何とも冗長に記紀神話をそっくり真似ている点が見て取れます。 (ウガヤフキアエズ以降については、前々項「歴史時代としての弥生以降」において既に古史古伝が記紀の年代(皇記2600年)に合わせて後代の出来事をあてはめた所から来る矛盾が露呈されたので省略、また天神代に関しても宇宙の始まりから地球の誕生・古生代に至るまでの140数億年を扱っていますので省略)

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 上記の☑した名前が記紀神話とダブルことから、古史古伝論者のいう歴史はほとんどが改ざんであることがお分かりいただけると思います。しかもYES/NOで視ると、これらはすべて超古代の歴史とは合致しないという結果が出ております。縄文時代に文字があったのか否か、超古代の歴史を伝える文献が他にあるのかどうかはともかく、私たちは一旦「記紀」の記述からは離れるべきだと思われます。

※なお、現在までにYES/NOで判明しているのは以下の点ですが、これ以上の事柄はまた次の機会に譲るのが妥当かと思われます。

 ・古史古伝論者がいうような世界の偉人(モーゼ・キリスト・釈迦等々)はすべて日本には来ていないし、青森のキリストの墓・宝達志水町のモーゼの墓も偽物。
 ・こうした考えの延長上にある「日ユ同祖論」にも根拠はない。
 ・ヒミコはアマテラスを祀っていたのではない。

【参考書籍】
Wikipedia
・小林惠子、井沢元彦「『記紀』史学への挑戦状」(現代思潮新社)
・小林惠子「興亡古代史」(文芸春秋)
・布施泰和「『竹内文書』の謎を解く」(成甲書房)
・小林保「縄文語の発見」(青土社)
・岡本雅享「民族の創出」(岩波書店)
・鳥越憲三郎「出雲神話の誕生」(講談社学術文庫)