(2019年筆)
70年安保に関して、私は 2010年に次のように書きました。
私たちがその当時どこまであの時代の実相を認識していたかは疑問であり、それはただ単にその渦中にある者には時代の底流が見えにくいという歴史学の本質的逆説に理由があるだけではなく、その一端は若者特有の未熟さにもあったのではないかと思われるのです。確かにベトナム戦争は泥沼化し、B52が横田や嘉手納から飛び立ち原潜が横須賀や佐世保に寄港していたわけですが、一般学生が日常的にそれらの光景を目にするわけではなく、あくまで新聞やテレビ-それもアパートにはなく食堂などで見る-の間接的情報に触れていただけなのです。
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次の年は「プラハの春」と「パリの5月革命」で明け、夏休みには「ソ連軍のチェコ武力侵入」があり、逡巡していた私たちは既に東大・日大で結成されていた「全共闘」の流れにストレートに合流していくことになるのです。合言葉は「自己否定」と「連帯を求めて孤立を恐れず」、マルクスと吉本隆明の著作を携え、敢然とバリケードの中に立ったのでした。国家試験は拒否したものの、その先に何があるのかなど考えている余裕は誰も持ち合わせてはいなかったでしょう。
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この後新左翼運動は安田講堂の敗北を経て、70年安保の自動延長により一般学生レベルではほぼ収束し、後の連合赤軍事件で論理的にも破綻していったと私には思われます。
しかし、2019年現在の考えでは、最後まで戦った彼らこそ正当だったのであり、途中で戦線を離脱した私たちこそ非難さるべき存在なのだと思われます。離脱した私たちは80年代・90年代にかけてそれぞれの分野で経済的成功を達成し、それが各自の努力と才能によるものだと勘違いしてきたようですが、今にしてみればそれはこの国のGDPの順調な拡大によってもたらされたのだと言えるでしょう。
というのは、バブル崩壊後の私たちは、経済成長がもはや神話でしかなく、大企業から零細企業まで長い不況を体験することになったからです。その過程で、ベルリンの壁の崩壊・ソ連の崩壊を目の当たりにし、マスコミや御用評論家の唱える「資本主義の方が社会主義よりシステムとして優れている」とか「これからは新自由主義により一国枠を超えた世界システムが勝ち残るのだ」などという言説がまき散らされていったわけです。現在の私の眼からすれば、これこそが欧米金融資本のプロパガンダであったわけですが、当時はどのように考えるべきか迷っていたのが実情でした。
そんな中で、内外ともに数々の事件があったわけですが、その延長上に 2011年の東日本大震災があり、私たちは、ここに戦後という擬制の時代が終焉したことに気がついたのでした。個人的に感じ取ったことを年表形式にしたものを見れば、当時の時代感覚が蘇るのではないかと思われます。
2018年春に、室伏志畔氏の「誰が古代史を殺したか」に出会った私は、自身が戦列から離れた70年代後半から 2000年初頭にかけて、この国のアカデミックな歴史学を揺るがす大きな発見があったことを知らされました。時系列で言うと、70年代から相次いで発見をみた中国長江流域の集団稲作文明の遺跡と我国の稲作文化とに共通点が見られることから、呉越の民が大陸から漂着してきた可能性があること。次に、80年代の神庭荒神谷遺跡と 90年代の加茂岩倉遺跡の発見により、従来は近畿起源と考えられていた銅鐸が出雲に由来し、このことが出雲王朝実在説を裏付けるのではないかと考えられていること。さらに、古田武彦により早くから提唱されてきた万世一系の大和朝廷に先立つ九州王朝説が、民間史学者により 90年代以降ほぼ実証的に裏付けられてきたことなどです。
70年代以降、敗北感を引きずって出自を憚ってきた感のある私は、自己の知的後退と頽廃に赤面しながら自らの不明を恥じるしかありませんでした。確かに数年前この国の超古代史論について研究する中で、「記紀は大本営発表であり、伊勢神宮への皇室の参拝は明治以降である」などとは知っていたのですが、それはあくまでも「記紀」が正確な史実ではないというぐらいで、「記紀」神話もあちこちから集めてきた説話の換骨奪胎に過ぎないという程度のものでした。それはまさに室伏氏の言う、一見科学的な外見をまといながらも根本的には「天皇制国家の本質」に迫りえない戦後の歴史学の次元にとどまるものであり、それこそ旧左翼の根本的弱点であると考えられる所以です。
現在の或いは近代以降の日本国家を相対化するには、「天皇制の相対化」が本質的な課題となりますが、それは何もどこそこで万世一系が途切れたとか、ここで南朝が北朝に変わったとかをあげつらうことではなく、天皇制国家のイデオロギー的擬制を国家論のレベルで打破することが必要だと考えられます。室伏氏が語るには、「イデオロギー的な擬制としての自覚を支配層は時とともに失い、いつしか遠い昔から天皇は大和にあったとする錯誤に陥ったのに並行して、大衆に生じた〈奴隷的観念〉に吉本隆明は〈日本の敗北の構造〉をこう見た」のだということです。
奇妙といえば奇妙なことですが、本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らの所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかのごとく錯覚するという構造が、いわば古代における大衆の総敗北の根底にある問題だということができます。この敗北の仕方は、十分に検討するに値するので、国家といえば天皇制統一国家という一種の錯誤、あるいは文化と言えば天皇制成立以降の文化というふうな錯誤が存在するのですけれども、その錯誤の根本になっているのは、統一国家をつくった勢力の巧妙な政策でもありましょうけれども、ある意味では大衆が、自らの奴隷的観念というもので、交換された法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣というものを、本来的な所有よりももっと強固な意味で、 自らのものであるかのごとく振る舞う構造の中に、本当の意味での日本の大衆の総敗北の構造があると考えることができます(「敗北の構造」より)。
この国では現在、老いも若きも洗脳状態にどっぷり浸かっており、この先、膨張する中華帝国と統一される半島の傍らで、少子高齢化と科学技術の衰退に見舞われていき、中韓に追い越されるのは時間の問題だと考えられます。その時、日本国民はどんな態度をとるか。最悪のケースが洗脳が解けぬまま右傾化を強めていく方向であり、 核武装を考えたり、アメリカが守ってくれると思っていても、おそらく米軍は移転していき、梯子を外された日本国民はその時はじめて外圧にうろたえるのではないでしょうか。 私の日本史論は、近代が「欧米金融資本と跛行的近代」、近世が「ヨーロッパ人の来航と日本近世」、中世が「日本中世奴隷制論」という表題の予定ですが、最初に古代史論として「改竄された記憶 日本古代史論」が来なければならない。というのも、「旧唐書日本国伝」に「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対こたえず。故に中国これを疑う。」という記述があるからです。すなわち、改竄は「日本書紀」に始まり、遣唐使として中国に渡った日本国の使者は、その偽りの史書の言葉で自らの「歴史」を語り、中国側はそれを疑いの目で見たとされるからです。古代史の真実がこの国の学校で普通に教育される日がいつ来るかはわかりませんが、それを国民が―右から左まで―共有しない限りこの国の再生はありえないと考えられます。
なお、以前私が取り組んだ超古代史論の中で、「竹内文書」をはじめとするような古史古伝(「東日流外三郡誌」を除く)や神代文字、またヒエログリフや北海道アイノ文字などに依拠する日ユ同祖論などはすべてまっとうな歴史学の対象ではないことが証明されたわけですが、そこで引用された小林惠子氏や鳥越憲三郎氏の説は、現時点では信ぴょう性を失ったものと考えております。大体において超古代史論などというものは、「戦争には負けたけれども日本には誇るべき伝統がある」という言い訳にしか過ぎず、それを吹聴している人々は敗戦の概念すらアメリカ占領軍しか念頭にない状態なのです。しかし、663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に倭国が完敗し、その後唐が筑紫都督府を開設・占領したことは紛れもない事実であり、吐蕃の反乱がなければこの国のその後はまた違った方向に行っていたのではないでしょうか。
【参考文献】
・室伏志畔「「誰が古代史を殺したか」(世界書院)
・兼川 晋「「百済の王統と日本の古代―“半島”と“列島”の相互越境史」(不知火書房)
・大芝英雄「「豊前王朝―大和朝廷の前身」 (同時代社)
・古田武彦 「真実の東北王朝」(ミネルヴァ書房)