磐井の乱と蘇我・上宮王朝時代

(2019年筆)  

継体紀の中の「磐井の乱」を語る前に、兼川晋氏は次のように述べています。

 

「日本書記」は、神武以来代々の天皇を近畿大和に根を張る政権の主権者であるかのように書いているが、実は神武以来の政権主権者たちは豊に根を張っていた。倭の五王時代が筑後から筑紫を舞台とした特別な時期だったのである。それが終ると、継体以後は再び豊を舞台にした歴史が展開することになる。その中で、一時、筑紫が舞台になった多利思比孤・上宮王家の全盛時代があるが、多利思比孤を隠蔽しなければならない「日本書記」の立場は、継体以後もつぎはぎを繰り返しながら崇峻・推古までを近畿大和の政権であるかのように記録しているのである。

 

現在の高校教科書にはこの「磐井の乱」について、「大和政権が発展する過程で畿内や各地の首長の反抗があり、大王家自体も幾度か衰退したと考えられる。しかし 6世紀初め、新羅と結んで反抗した筑紫国造磐井を打ち破った(磐井の反乱)ことにより、大和政権の政治組織も強固となり、統一国家は完成の段階にいたった」とされているようですが、これでは乱の原因もはっきりせず、経過もあいまいで、糟屋の屯倉一つで決着するような結果も到底納得はできないはずです。

 この「磐井の乱」に対しては、舞台を九州に移した古田武彦氏や大芝英雄氏の説もあるのですが、これらも納得のできるものではなく、それは時の倭王が特定されないまま考えることから生じた不都合だろうと兼川氏は指摘しています。前項までの考察で私たちは、倭王武こそが筑紫の君だったことを知ったのですが、だとすれば倭王武こそが岩戸山古墳の磐井であると考えなければならないわけです。そしてこの筑紫の君磐井は温祚百済の系統に属していたのであり、「磐井の乱」とはその彼が継体に討たれたという事件なのだと兼川氏は主張します。では、継体とは誰か。「日本書記」や「三国史記」に惑わされずに考えれば、男大迹尊とよばれる九州の継体こそがその人物ではないかと考えられるというのです。

 この推測を裏付けるのが「二中歴」であり、以前「卑弥呼の出自」においても触れたことがありましたが、これは 12世紀末の公家貴族に必要な知識を百科辞書風に編集・略説した「掌中歴」と「懐中歴」を類聚したことから「二中歴」と名付けられた。そこに、継体から始まって大化にいたる 184年間、31代の年号群が記録されており、これを精密に読み解く形で兼川氏は「日本書記」の記述が、「二中歴」と13年ずれていることを突きとめます。

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さらに和歌山県橋本市の隅田八幡神社(豊には角田川があり角田八幡神社もある)に伝えられる人物画像鏡の銘文を解明することで、この13年のズレも解消されると同時に、当時の史実が浮かび上がってくる。すなわち、この銘文には前項で取り上げた斯麻=百済の武寧王の名が見られ、古田武彦氏はここに焦点を絞ってこの鏡が通説とは異なり百済製のものだとしたわけです。

しかしこの解釈にも不十分な部分があり、また坂田隆氏の男弟王を近畿天皇家のヲオト王とする説をも乗り越え、兼川氏は次のように解説します。

 

男弟王の場合も、その元年(494)から九年までは武王配下の自称の大王に過ぎず、一方、武王は筑紫の実質的な天王であったし、男弟王は武王の死後ようやく名実ともに大王になったとする想定は不自然なことではない。ただ、画像鏡は元年を、「日本書記」の継体のように早めに数え始めただけである。自称大王から、実質的な倭王宣言をしたのが 十年癸未の年だったのだろう。百済の斯麻(武寧王)はいち早くそれを知り、だからこそ祝儀として「長く泰きを念じた」人物画像鏡を贈ったのである。―――(中略)―――

 斯麻が武烈大王を男弟王と呼んだのは、大王が斯麻の名義上の父旨王(= 昆支)の弟だったからだろう。斯麻の実際の父は蓋鹵王=余慶である。旨王の弟が軍君である。軍君は兄の旨王が南韓に帰国して以来、興王、武王にはやや冷や飯を食わされていたが、大伴金村に請われ、503-10+1 =494年には豊で大王を自称した。さらに10年目には、筑紫の天王を差し置いて倭王宣言をした。それで武寧王は、画像鏡を祝儀として贈った。・・・とすると、男弟王 =軍君は、仇台百済の牟氏王統に繋がる。斯麻は仇台百済の余氏王統を嗣ぐものとして、武王より男弟王にいくらかの親しさを感じていたのかもしれない。―――(中略)―――

 倭国では 4世紀から5世紀にかけて沸流百済宗家の兄王・讃・珍と続いた政権の後、済・興・旨・武と、筑紫の君や天王を称する主権者が 4代続いた。そのうち旨だけが仇台百済の牟氏系であったが、済・興・武は温祚百済の余氏系を嗣ぐものだった。同じ時期に南韓の百済が温祚百済の余氏系だったことは両政権にとっては好ましいことだったろう。ところが、武王のころから南韓の政権が仇台百済の牟氏系政権にかわったのである。東城王は仇台百済の牟氏系だった。それが余慶の遺児・武寧王になると、仇台百済の牟氏系政権に代わるのである。武王は余氏系ながら温祚百済の余氏系だったため、列島と南韓の間には いうにいわれぬ余所余所しい風が吹き始めたのだった。―――(中略)―――

この軍君が豊の君・継体であり、武王が筑紫の君・磐井である。であれば、そもそも、この状況が、そのまま「磐井の乱」の遠因になりうる。

―――(中略)―――

「日本書紀」に、磐井が継体の使者に向かって、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安ぞ率爾に使となりて、余をして儞が前に自伏はしめむ」といったとあるのは、興王や倭王旨のもとで伴の関係にあった軍君の使者と武王の仲を指すものだったのである。 

以上のように、515年の「磐井の乱」の原因が明瞭に解き明かされていくわけですが、その2年前に南韓では領土問題で混乱が起こっていた。それを解決するために南韓に渡った継体側の物部麁鹿の情報では、筑紫の磐井がこの混乱を背後で操っていたことが分かり、麁鹿は急きょ筑紫に引き返して来て磐井を討った形となったのでした。そして磐井の死と糟屋の屯倉献上でこの乱は一応の決着をみるのですが、6年後に継体の崩御(521)でその相続が大問題となります。「日本書紀」の記述は信用できないものとして、実際に後を継いだのは誰なのかを考えてみる時、磐井征討の前に継体が発した言葉「(磐井を討ったら)長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ」が重要なヒントになると兼川氏は主張します。

 

 約束が守られたのであれば、継体の後は麁鹿に託されたことになるだろう。すると、一旦は矛を収めた筑紫の葛子が第二次「磐井の乱」とも言うべき辛亥の変(531年)の種をつくって、再び豊と筑紫は戦うことになり、これが「百済本記」のいう「日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」という政変になるのである。

 

 結局、これをもって倭の五王朝は滅亡するわけですが、通説と大幅に異なる氏の説を傍証するのが1968年に常陸稲荷山古墳から出土した鉄剣の金で象眼された銘であり、これと並べて論じられることが多い肥後江田船山古墳の太刀の銀の銘(1873年出土)なのだということです。通説では雄略と関係させてみたり、雄略を武王に比定してみたりするのですが、ここまで往時の史実が明瞭となった以上、次のように考えるのが正しい。すなわち、「獲加多支鹵大王は武王であり、辛亥の変は531年である。だから、雄略天皇とは何の関係もないのだ」と兼川氏は論証するわけです。

これ以降の兼川氏の論証は、「二中歴」とその改元権をだれが持っていたかをキーポイントに行われて行きます。そして、「継体が作った九州年号は磐井の乱の功労者である物部麁鹿の手に移された。それはまた蘇我稲目と馬子によってつながれていく」わけですが、531年の辛亥の変の決着を祝して百済の武寧王の子聖王がこの年仏教をもたらしたこととなり、九州年号は「教到」と改元されるわけです。また、536年には物部麁鹿が没し、二世麁鹿(石弓若子連公)が後継になり、百済から丈六の仏像ももたらされ、「僧聴」と改元されます。ちなみにこの仏像は一旦豊の願光寺に納められたと推測されており、それがのちに近畿の飛鳥寺に移されたわけですが、だからこそ仏像の搬入に苦労したという記述があるわけです。また飛鳥寺が元興寺の別名をもつのもこの事実によるのだとされています。  

 ここまでと次の「明要」までは、二世麁鹿(石弓若子連公)の元号であるわけですが、552年の「貴楽」以降の年号は二世麁鹿とは全く別の政権が新しい年号を立てたのだとされます。この新しい政権とは、蘇我稲目が兄尾興を戴き大倭国と称して樹立したものであり、この時豊系から筑紫系への政治権力の転換が行われたものと考えられるわけです。蘇我稲目は豊の物部麁鹿・二世麁鹿に仕えて功績を残し実力者になったわけですが、倭人・扶余人に中国系も混じった筑紫の物部系の血筋であり、570年に 稲目が没するとその子馬子が改元権を持って、「金光」と改元するところにそれが表れるのだと兼川氏は説明します。

その後馬子が没する 626年までの間に、物部尾興が創始した政権は、やがて「日出づる処の天子」で有名な上宮王家の最盛期を迎えることとなりますが、その流れは馬子による蘇我の血筋の純粋化であり、豊の敏達に姪である豊御食炊屋姫を送り込み豊まで支配下に置いたあと(576)、同年筑紫の敏達の太子殺害事件が起きたことなどにそれがよく表れているといえます。すなわち587年の丁未の変は、豊の敏達が没した時、物部守屋(=筑紫の敏達の弟・殺された太子の叔父)が豊の物部の相続に介入すべきとして、世子押坂彦人の代わりに石弓若子連公の子穴穂部皇子を立て、馬子や豊御食炊屋姫の息のかかった豊の物部一族と対立したわけですが、結果的に孤立し守屋の戦死という形で決着したのでした。この後、589年に上宮耳=天津・物部・上宮・耳・多利思比孤が即位しますが、この王は父方も母方も蘇我の血をひく完璧な蘇我で、馬子は特別な思いを込めて「上宮王家」と呼んだのだろうと推測されます。「日本書紀」はこの「上宮王家」を隠蔽するため麁鹿以降を、安閑・宣化・欽明などを立ててみたり、仏教伝来年を偽ったり、筑紫系を無視して豊系の記述のみを優先させたりしているわけですが、すべて万世1系の観点からこの蘇我・上宮王朝を隠ぺいするための脚色だと考えられるわけです。  

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