皆さんお元気ですか、朝比奈です。
3月に右の本に巡り合い、YES/NOでみた所、細部はともかく大筋は正しいとの結果が得られ驚きました。というのも、学校で習った古代史とあまりにも違っており、それは奈良朝を正当化するためにそれに先立つ九州・出雲王朝の存在を隠ぺいしたと言うのです。この先鞭をつけたのが故古田武彦だったわけですが、氏の業績は民間の歴史学者に受け継がれ、瞠目すべき古代史論として結実。70年代以降の私たちは疎かにしてしまったのですが、この頃中国では長江流域に集団稲作文明の遺跡が相次いで発見され、我が国の稲作の起源に再考が迫られたこと、また、83~84年の出雲・神庭荒神谷遺跡と96年の同・加茂岩倉遺跡の発見は、従来の古代史が覆るほどの事件だったということです。
原倭国は九州の飯塚周辺に成立した呉の民による国で、同時に流れて来た越の民は、出雲で国を作ったほか越前・越中・越後あたりに定着。その後、朝鮮半島経由で進出してきた北馬系勢力が呉越の民の国に侵攻し、出雲王朝は二度にわたって滅び、原倭国はその後博多沿岸で委奴国として再建される。この半島経由の勢力がその後さらに増加し、呉の民との争いが絶えなかったのが倭国大乱と卑弥呼。九州王朝はその後も筑紫・豊前が並行して6・7世紀に至り、この関係が白村江の戦いで激変。唐・新羅と結んだ豊前の中大兄や鎌足の謀略で筑紫は唐の占領という憂き目に。しかし、チベット反乱で唐が撤退した隙に筑紫の天武が中大兄を駆逐。中大兄は近江に逃げるのですが、追う天武が勝利して畿内で倭国を再興。ところが、天武亡き後大津皇子の変で近江京側が権力奪取に成功、中大兄・鎌足側の皇統が奈良朝から始まるわけです。つまり、天武以前の王朝は近畿には存在せず、それ以前の出来事は全て九州・出雲で起こった、それらを記紀が神武以来の近畿で起きたことと改竄したというのです。
天皇制(教)の起源についてはもう少し検討が必要ですが、私たちは「スーパー・ストリーム」の質が打算的歴史や宗教を超越する段階に入ったと考え、「ウルトラS.S」を提案したいと思います。何故なら、ローマカトリックも改竄に次ぐ改竄の上に胡坐をかき、所謂ダビンチコードはキリスト像の嘘を暴くものだったとされますし、釈迦が悟ったのは、菩提樹の下での断食よりも農家の娘が持ってきた一杯の牛乳粥の重要性だったと考えられるからです。
では、来月またお目にかかりましょう。