悪質なのは親も医師も国民も
「千三百年前からの改竄は莫大な贈賄によって齎された」
まずはコロナとワクチンに関する支配層の誘導ですが、
相も変わらずワクチン有害事象をコロナ後遺症などと名付けて、
逃げを図ろうとする意図が見え見えの番組をテレビがやっている。
「ワクチン4回してて、コロナにかかった~」、
と嬉しそう?に言う年寄りがこの支配体制を存続させている。
ワクチン後遺症でしょ。ほんと悪質だなー(棒
新型コロナ「後遺症」 診療報酬の加算など対応強化へ 医療機関は | NHK | 新型コロナウイルス https://t.co/VPrZ2MEAIv
— Taka (@taka3) May 1, 2023
もうここまで来ると「医学」というのも完ぺきなインチキで、
「がんを攻撃する免疫チェックポイント阻害薬 = ヤーボイ」など、
完全な国や医師会のミスといってもよいのではないか。
国立がん研究センターなどは28日、がん免疫治療薬のニボルマブ(商品名オプジーボ)とイピリムマブ(同ヤーボイ)を併用した非小細胞肺がんの臨床試験で、11人が死亡したため、試験を中止したと発表した。原因は不明だが治療との因果関係を否定できず、ヤーボイの影響が強い可能性があるという。
結局ノーベル賞受賞薬の「オプジーボ」と、
その開発をした本庶佑などが所属する日本免疫学会という組織も、
以前にも指摘した通り、
新型コロナや遺伝子ワクチンの本態に関しては全く的外れなので、
彼らの論理が破綻していると考えられるということなのです。
このような視点で以下の三つの記事を読んでみると、
この愚民国というものがいかなるものかがよく理解できるわけです。
なんなのこの国異常だよ https://t.co/zcrPsOQDGe pic.twitter.com/O5acWSNk1q
— やったるぞ‼️🇯🇵 (@qat8EJFlDVwxKGG) April 29, 2023
3回もmRNA製剤を注射された1歳の男の子は3回目の2日後に心肺停止となったそうです
射たせた親
射った医師
「因果関係不明」だという国
全て悪魔の所業です人類未体験のmRNA製剤
子供の犠牲者が出ることは接種開始前から懸念されていました
無知・無関心は罪ですhttps://t.co/qejlQUs8FT— 自分の頭で考える人2.0 (@Awakend_Citizen) April 30, 2023
日本人試されてます。
政府のワガママをどこまで聞いてくれるかを。
何をされても怒らず、信じ従うかを。
日本人全員が試されてます。
訳もわからずボーっと従っている圧倒的多数の皆さん、あなた方はどこまで許すつもりですか?
日本政府による全ての国民へのジェノサイドを。— 夜明けを待つ (@BDEHWohc4x2b7eb) April 30, 2023
そして、ついこのあいだも、
「ここまで列島の愚民が転落してしまった原因は、
ひとえに偽の天皇制にあったのではないか」と申しあげましたが、
前回に続いて「旧唐書」と「新唐書」の記述が、
まるで正反対になってしまった理由が以下を読めばよくわかると思います。
正史『宋史』より引用
雍熙元年(北宋の第二代大宗の年号、984年)、日本国の僧奝然(ちょうねん)、その徒五、六人と海に浮んで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代紀』各一巻を献ず。・・・・
四時の寒暑は、大いに中国に類す。国の東境は海島に接し、夷人の居る所なり、身面皆毛あり。東の奥州は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす。国王は王を以て姓となし、伝襲して今王に至るまで六十四世、文武の僚吏は、皆官を世々にすと。
その年代紀に記する所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲尊といい、その後は皆尊を以て号となす。・・・・
太宗、奝然を召見し、これを存撫すること甚だ厚く、紫衣を賜い、太平興国寺に館せしむ。
上、その国王は一姓継を伝え、臣下も皆官を世々にするを聞き、因って嘆息して宰相に言って曰く「これ島夷のみ、・・・・」
984年に、東大寺の僧奝然が宋を訪れた記事が載せられている。小生が疑問に思ったのは、奝然が中国に着くや、いとも簡単に皇帝に拝謁を許されていることです。奝然は、日本国の正式な使者でも高名な学僧でもない、その彼が如何してやすやすと皇帝の拝謁を得ることが出来たのだろう。太宗が奝然の来朝を大いに喜んだ様子が書かれている。日本の『職員令』や『王年代記』に喜んだとは考えられない、事の核心は一緒に持って行った銅器十余事にあったのではないか。銅器十余事とは一体どの様な物だったのだろう。
岩波書店の『日本歴史年表』(第四版)に次の記事がある。
982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り皇帝に拝謁。
銅器十余事には、陸奥国で産した黄金がズッシリ詰め込まれていたのではなかったか。
『旧唐書』が成立したのは945年である、既に海上交易は盛んになっていた。宋商人の船はたびたび博多を訪れるようになっていた。日本で最も喜ばれた品物の一つに経史があった。抜け目のない宋商人は、最新の歴史書『(旧)唐書』を運んで来ただろう。それは平安王朝に献上されたに違いない。
王朝人は愕然としたのだ。平安王朝の正統性は、万世一系の神話と歴史にある。大宝三年(703年)粟田真人の遣唐使以降の遣唐使の使命は、唐朝に日本国の歴史(天武天皇の命令で定められた)を説明し、承認してくれるよう説得することを第一義とした。その為大きな犠牲も払っていた。ある程度成功したのではないかと言う手ごたえもあった。
『(旧)唐書』は大きな衝撃を平安王朝に齎したのであった。時に平安王朝は全盛期を迎えつつあった。貴族は活力と自信に満ち溢れていた。来日する宋商人に中国の内情を聞き対策を考えたのであった。中国では商工業が活発になり庶民の生活は豊かになっていた。当然税収も増え宋王朝の威力も盛大であると考えられたが、実情は違うらしいことが判ってきた。
宋朝は、中国統一王朝であったが、北方の遊牧民国家遼の侵略を受け本来中国の固有の領土である長城の南の燕州十六州(今の北京周辺)を奪取され、回復を試みるも大敗を繰り返すだけであった。遼の更なる南化を防ぐため、毎年膨大な金銀財宝、食料、美女などを貢納せねばならなかった。宋朝は金で平和を買っていた。そのため宋朝の台所は常に火の車であった。
平安の貴族どもは、金で何とかなると考えたのだろう。奝然に持たせた黄金だけではない。彼の後にも膨大な金銀財宝を献上している。『旧唐書』の日本記事を否定する新たな『歴史書』の制作を依頼したのだ。完成の暁にはより多くの財宝の献上をちらつかせながら。(続く)
小生は『日本歴史年表』(岩波)を信頼している。
片や崩壊寸前でも内部告発者が出て来る米国と極東の愚民の国の違い
は、1300年前からの改竄の結果であり、
しかもそれが金銀の贈賄によって齎されたという汚さに基づいているわけです。