古代史の真実
「通史とは大幅に異なる」
以前、 室伏志畔氏の古代史論を取り上げましたが、
その主要な論点は、
春秋戦国時代の末期となる前473年に 、
江南の呉が越王勾践に滅ぼされ、
その越も前334年に楚に滅ぼされるわけですが、
こうして江南の地から発生した難民が半島や列島に上陸し、
ここで集団稲作をしながら国を作っていく。
そして、呉人は主に九州王朝(倭国)を形成し、
越人は出雲国で王朝を作った他、越の国にも流入したというのが第一点。
呉の民は北九州の遠賀川上流の飯塚市に原倭国を形成したものの、
その後半島経由で来た民族に侵略されて、
博多湾岸に移動せざるを得なかった。
この博多湾岸で再興された国こそ委奴国で、
1世紀に後漢から金印「漢委奴国王」をもらったわけです。
問題は、この金印の訓みで、
従来は「漢の委の奴の国王」と訓まれていたのですが、
これは正しくは「漢の委奴国王」と呼ぶというもの。
委の音はwiであり、倭も今はwaと読むが、
かつては、wiとかiwiと読まれ、
飯塚市もこれと同様倭塚が原本。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0)
この委奴国も、3世紀には前記した勢力によってさらに衰え、
倭国大乱という状態を来たしてしまうわけですが、
その結果卑弥呼を戴く邪馬台国の支配下に置かれたというのです。
この委奴国の中でも半島系勢と同居できない集団は、
この後、阿蘇の麓の菊池市・竹田市辺りまで後退して捲土重来を期すわけですが、
やがてさらに辺境へ追われ、朝敵熊襲とされて以降は、
古い文字は禁忌とされ、
その証拠に熊本県産山村には、井という名前の世帯が数百あるとのこと。
これも読みは、iwiということですので、
上記の件をYES/NOで視ていけば真実が分かる
こととなります。