古代史年表が出来た(2)
「5世紀~7世紀」
昨日は残国(百済本家)の兄王が貴国を乗っ取った所までお話ししましたが、
それが392年で、この王は 394年に没し、
その後にいわゆる倭の五王時代が始まるわけです。
百済本家と密接に関連した時代なわけですが、
5世紀そのものは比較的穏やかな時代だったようです。
それが一変するのが倭の五王の最後の武の時代であり、
半島情勢の混乱により倭王が支配していた南韓方面にも異変があり、
様々な権益が絡んで豪族たちの不満が高まり、
結局5世紀の最後に扶余から来た軍君が豊前で大王として即位。
結果的に軍君=継体と物部麁鹿火によって倭の五王朝は滅亡させられます。
軍君=継体は長門より先を取り、
物部麁鹿火は筑紫を貰い受けた形に なったわけです。
6世紀はこの物部麁鹿火が実力者として、
自分の息のかかった筑紫の君を擁立していくわけですが、
麁鹿火亡き後 、
6世紀後半からは蘇我稲目に始まる蘇我氏が実力者となり、
この血統が純粋化されて上宮王朝と呼ばれる王朝が形成されます。
大陸では隋が中国を統一し、
上宮王朝からは遣隋使が派遣されますが、
600年に隋から指摘されて上宮耳が引退し、
耳の太子であった厩戸の皇子も一族を引き連れて斑鳩に移住します。
「書紀」では、上宮王家を隠すため、
耳と耳の太子厩戸豊聡を合体させて聖徳太子を捏造し、
「日本記」に付けられていた系図一巻は破棄されたために、
私たちは誤った聖徳太子像を教えられてきたわけです。
607年に遣隋使が再び派遣されますが、
これは耳の弟によるもので、
この時「 日出処の天子云々」の国書が持参され隋の煬帝が激怒したわけです。
遣隋使はその後608年と610年にも派遣されているのですが、
これは斑鳩の厩戸皇子が主体だったらしく、
国際情勢をきちんと把握し、自らを 辺境の諸侯であると自覚していた。
そのために、隋では二つの倭国を認識し分け、
長期的な外交は筑紫ではない方を優先する方針が確立されたようです。
これは次の唐にも受け継がれ、
白村江戦に向かう状況はこの頃から醸成されていたようです。
また、645年の事件は、
蘇我氏が中大兄・中臣鎌足らによって滅ぼされた事件であり、
大化の改新=律令制に基づく政治の刷新ではなかったことが、
九州王朝の二中歴から判明しております。
二中歴では大化は695年のことであり、
当時の地名やその他から645年では整合性がないと考えられています。
いずれにしろ、上宮王朝はここで終わり、
唐の絶大な圧力を感じた中大兄等は吉備播磨に逃避したと考えられます。
最後まで九州に残ったのは筑豊のオオキミ系で、
百済の滅亡にあたり三軍を組織して百済再興を支援するわけですが、
それ以前に、唐新羅と吉備播磨の中大兄間では水面下で話がついていたようで、
663年の白村江戦では、前衛坂東軍がかなりの損害で退却、
次の九州軍がそのまま突っ込んで全滅、
後衛吉備・播磨軍は九州の全滅を確認してから無傷で引き上げたようです。
ここに委奴国以来血統を変えながら続いてきた、
倭国九州王朝は滅亡するわけですが、
唐新羅連合軍は太宰府を都督府としてその後8年間にわたり日本占領。
その間に中大兄は 近江に遷都していた九州勢に侵攻し、
唐新羅連合軍の助けもあって戦いに勝ち、近江京を開設します。
しかしその後、チベットの反乱があって唐が九州から撤退したのを機に、
九州の天武が中大兄を討ったのが672年の壬申の乱。
しかし、天武亡き後、持統の工作により、
再び近江朝の血統が蘇って奈良朝に繋がるのが701年となります。
「書紀」はこれらを隠ぺいするために様々な改竄を行っているわけで、
私たちは右から左まで改竄された古代史しか知らない
という、
何ともお粗末な状態に1300年間置かれてきたわけです。