日本中央の碑
「近代以降の視野狭窄」
青森県の東北町というところに、
「日本中央」 と書かれた石碑が立っているそうです。
この石碑 昭和24年に偶然発見されたそうで、
平安時代後期から鎌倉初期にかけて数々の和歌に詠まれた、
「壺の碑」ではないかとされていますが、
今のところ確証はないとのことです。
問題は2点あり、
一つはなぜ青森が日本の中央なのかという点と、
2番目は、江戸時代に発見された多賀城碑が「壺の碑」ではなかったのかという点。
多賀城碑の方は、
西と特筆大書された下に小さな文字が刻んであり、
碑面 には、724年に多賀城が大野東人によって創建され、
762年に藤原朝狩によって修造されたことを記してあるほか、
蝦夷国の境界からの距離、
さらに下野の国と常陸国の境界からの距離が記されているそうで、
実測値と合わないため学会では概ねその価値が否定されているそうです。
ところが、古田武彦によると、
従来の学者がすべて下野・常陸両国の東側の境界を測っていたというのです。
わざわざ西と書いてあるのは、
京都に向かっての方向感覚をいうのだと古田は主張するのです。
で、そうした考慮のもとに距離を測ってみるとぴったり合うので本物。
ただ問題は、芭蕉もこれを見て非常に感動したと言っているのですが、
これが本当に「壺の碑」であったのかどうかという点です。
なぜなら、 この石碑7~8世紀ごろ蝦夷の朝獦が建てたと言うのが記録にあり、
その朝獦が謀反のため討たれて以後土中に埋められた。
その年代を調べて行くと建立後2年で埋められているため、
平安後期から鎌倉初期の和歌に歌われるはずがない、
というのが古田武彦の論です。
ということで、青森県の石碑が「壺の碑」となるわけですが、
ではなぜここ東北町が日本中央なのかという問題。
実は、このためにこの石碑、学会からは一顧もされないのですが、
古田はこの石碑の裏側が削り取られている痕跡を発見するわけです。
だって、こんな大きな石碑を建立するからには、
年月日とか由来とか建立者の氏名とかがあっても良さそうなのに、
おもて面に日本中央と書かれている他には何もないからです。
で、 ここで「東日流外三郡誌」が登場してくるのですが、
そこにこの本を書き残した秋田考悸 の書いた一節があるわけです。
「都母の碑は、北斗の領極むより、糖部都母の地ぞ、日本中央たりとて、安倍致東が建立せり。」
時代は8ないし9世紀、
近畿大和朝廷の軍勢が蝦夷国を目指した頃、
蝦夷の長が建立したということですが、
その後大和朝廷の侵攻で削り取られ埋められたのでしょう。
で、 当時の日本国というのはどの辺りまでいうのかですが、
先の秋田考悸の一説には、
角陽国 (アラスカ)、流鬼国(樺太)、日高渡島国(北海道)とともに、
南の筑紫・琉球島にいたる地域が挙げられており、
その中央に当たるのが奥州のこの地だと言うのです。
確かに縄文時代の北海道の黒曜石が満州や沿海州で発見されたり、
沖縄産の貝の飾りがエスキモーの遺跡で発見されたりしているわけですから、
縄文時代の環日本海文明というのは相当な広がりを持っていた。
そして、 少なくとも4世紀頃には北海道と琉球をつなぐ交易路も確認されており、
逆に、津軽で弥生式水田が早い時期に発見されていたり、
前漢鏡や遠賀川式土器も発見されているので、
両者の交流はかなり活発だったと思われます。
で、これまでは古代史といえば九州王朝論を主眼としていたわけですが、
私たちはここでいきなりオホーツク方面まで視野を広げる
必要に迫られたようです。
東の古代史は文献として「東日流外三郡誌」ぐらいしかないのですが、
古代人と比べると私たちの視野が随分と狭かったこと、
それはまた薩長皇国史観の呪縛によっていたのだということがよくわかります。