卑弥呼まで終わった
「病膏盲に入る」
昨日、古代史論の 2回目、
「卑弥呼の出自」をアップしました。
悠久の大和朝廷がはるか昔から畿内に存在した、
とする皇国史観からは見えない部分が明瞭になったと考えます。
「倭は呉の太白の後」に明確につながる展開で、
古代史がきちんとつながり始めたといえるかと思います。
官製の歴史学に欠けているのは「倭国大乱」とは本質的に何だったのかという視点であり、それがないまま邪馬台国が近畿にあったのか九州にあったのかとする不毛な議論が延々と繰り返されているのだと室伏氏は指摘します。そして、倭国大乱の本質に迫り、女王卑弥呼の出自や邪馬台国の位置を割り出したのは大芝英雄氏であったとされます。
権威的な学者たちが鼻もひっかけなかった『三国志』「韓伝」や、
唐代に成立したものの中国本国では失われ、
唯一日本に残る『韓苑』に引用された『廣志』を読み解き、
大芝英雄氏は邪馬台国の姿を明瞭に浮き上がらせたといえます。
後漢はその末期に朝廷内で宦官と外戚の争いが激化し、加えて黄巾の乱(184年)が起こったため、楽浪郡による韓半島支配は韓や濊によって侵されるところとなった。この時、遼東半島にあった公孫康は、半島に帯方郡を建て、そこへ公孫模・張敞の二将軍を遣わし討伐し、半島南部の倭も帯方郡の下に置いたとし、こう続ける。「遼東半島支配者の公孫氏は、朝鮮半島も実効支配し、その征討軍の行動は建安年間(196~220年)であり、「倭国大乱」の終結時に符合する。公孫模・張敞の二将軍は、半島の南端、倭の 狗邪韓国(3世紀)に達し、九州の「倭国大乱」平定の懇願を受け、方策を立てて、精鋭一軍を派遣し、鎮圧占めた可能性がある。」それを『三国志』「魏志倭人伝」にある「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす」と記すのに大芝英雄は重ねる。
つまり、旧石器ねつ造事件と同様に、
古代の歴史をこの国一国の枠内でしか考えられなかった従来のアプローチに対し、
大陸・半島・列島という東アジア民族移動史としてとらえたことが、
画期的な発見につながったといえます。
邪馬台国の位置だって
邪(なな)めに伊都に届き、傍(かたわら)斯馬に連なる
という記述があるのですから、
「倭人伝」の記述を元に帯方郡からの距離と方位を割り出して推定していたこれまでの学者たちと異なり、この『廣志』の一条ほど決定的な証言はないのだと室伏氏は指摘します。伊都国については邪馬台国畿内論者も認めているわけですが、この伊都国に届くところに邪馬台国があったなら、それが遠く離れた近畿にあったわけはないということになるのですが、これ一つをとってみても、わが国の歴史学の惨憺たる状況が明らかとなるわけです
昨日も書店によってみたら、
明智光秀の子孫たる女が馬鹿な東大教授と、
イエズス会を抜きにした本能寺の変についておめでたいトークを行っている。
まさに幻想領域までどっぷりと侵されている
のがこの国の病態であり、
病膏盲に入る状態だと申し上げられます。