神武は筑豊に東征した
(2019年筆)
先に、戦後の歴史学は「記紀」が神話としたものを全て排除し、合理的に考えられる部分のみに話を限定したわけで、これが致命的な間違いだったと申し上げました。本稿で扱う神武東征にしても事情は同じで、いわゆる饒速日(ニギハヤヒ)や瓊瓊杵(二ニギ)の天孫降臨と同様戦後史学からは全く無視されたため、大和朝廷の起源に関しては、「記紀」に沿ったあいまいな理解のまま、これが悠久の昔から近畿に存在したというのが通説となっております。しかし 65年に古田武彦によって提起された九州王朝説は、その論拠を「中国史倭国伝」を主とし、「記紀」を従とする論考であったのであり、東洋史の客観性からいって歴史の流れは九州王朝説にいずれ変わることが必然的であると大芝英雄氏は語っております。例えば、
象徴的な『隋書』倭国伝の「倭国は天兄・日弟の兄弟統治・・・」と使者の言う、兄弟二王朝制は『記紀』大和朝廷史には該当しないから、九州王朝の政体とみるしかない。――(中略)――とすれば必然的に、豊前東朝は『古事記』の王朝となろう。
《注》(東朝の語は、斉明記 7年引用の高句麗僧、釈道顕の「日本世紀」逸文にあり、韓半島にも知られた名称であったとみられる。)
というような捉え方がそれです。本稿ではこれまで、室伏志畔氏の鋭い切れ味で原倭国の行方を探り、4世紀以降については兼川普氏の精緻な考察で壬申の乱までを跡づけることになります。ただ、大和朝廷に関しては両氏の考察でもはっきりせず、卑弥呼や邪馬台国同様、大芝氏の論考をもとにした次第です。
その大芝氏の説を敷衍する前に、福永晋三氏について触れておきたいと思います。というのは氏も福岡県田川地方の出身なのですが、最初から日本古代史に取り組まれた方ではなく、国学院を出て高校の国語教師をされていたとのこと。ただ、中国文学科の出身で漢文を白文で読むことができるという特技があったため、「万葉集」を万葉仮名のままで読んでみたことが古代史に入るきっかけだったというのです。詳しくは崗縣記という参考文献にあげたウェブサイトをご覧いただきたいのですが、 万葉集を原文で読んでみると従来の解釈と異なるケースが度々あり、さらに詳しく見ていった結果「『古代のヤマト』は『筑豊』にあったという、とんでもない結論に至った」ことから古田武彦を経由して古代史に傾倒して行ったということです。
例えば、<春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山>という持統の作とされる歌をよく見てみると、
持統天皇が藤原京から、あの奈良県の、あのへちゃむくれの天香来山を見て、そこに何か、人の着物がわんさか干してあるとか、どうたらこうたらとかね。じゃあ、藤原京からその人の着物が見えんのかどうかとか、色々言ってたわけですね。アホやないか?っち感じですね。
ーー(中略)――
そしてもう一つ大事なことは、さっきセメント会社に売られたって言いましたでしょう?香春岳は一ノ岳から三ノ岳まで、山自体がみんな「石灰岩」なんです。昔は草木が生えてなかったんです。今でこそ緑ですけど。するとこれ、山自体が綺麗に、「純白」に輝くわけなんです…夏が来ると、我が国はどうなるか?「緑」が生い茂るんです。夏の「緑緑」の一色の中に、天香山だけが夏の強い日差しを受けて「真っ白」に輝くわけです。
ちょっと想像してください…神々しいでしょう?異様でしょう?500メートル級の山だけ「白い」。周り、全部「緑」。この「コントラスト」をみんな忘れてた。だから、この衣は人間の衣なんかじゃないんです!当時もやっぱりすでに、神が考えられてたんです。[造化の神が神の衣を、そこに白妙の衣を掛けたように、天香山だけが白く輝いていることよ]ということで、だからこそ「春が過ぎて、夏が来たらしい」って歌えるわけですよ。ーー(中略)――
「らし」という助動詞は、根拠のある推量の助動詞。「根拠」です。もう、目の前にあるじゃないですか?香春岳、「真っ白」。あとはみんな、「緑」。だから、「あぁ夏が来たんだなぁ…」と。壮大でしょう?雄大でしょう?これが万葉集の「命」ですよ。僕、国語の教師やってきてね、これわかるまでずーっと「嘘」教えてきたんです。万葉集は「雄大だ、素朴だ」なんて言っておきながらね。「何が藤原京からあんなへちゃむくれの山に、何かこう、衣がピラピラ干してあるだけで、どこが夏が来たんじゃ?」っちな感じでね。わかんなかったんです、本当に。わかんないことばかりだったんです。さぁ、これで完全に「天香山」、比定出来たでしょう?「三輪山」、比定出来たでしょう?ということで、この段階ですでに私は、失われた福岡県下の「倭」という国を復元したわけです。みなさんの地名研究会と全然違う手法ですね。「倭はこっちだよ」と、元々。だからやっぱり「壬申の乱」より前、最低限、「壬申の乱」より前は全部、歴代の帝、神武から天武辺りまで、全部この福岡県下のどっかいらっしゃったんだよと。
というように、天香山・畝傍山・耳成山とは筑豊の香春岳に比定することが妥当なわけです。 一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳を持つこの山が、三輪山とか三諸山とか呼ばれることとも符合するというように、大和から筑豊へとこうして歴史は奪回されるわけです。さらに、天香山というのは、古事記・日本書紀では「銅が採れる。金が採れる。鉄が採れる」という記述があることも、香春岳が三輪山であることを決定する証拠であるとされます。というのも、香春岳には現在も採銅所があるほか磁鉄鉱も採れるのですが、奈良の天香山からは昔も今もそのような事実はないとされるからです。この山が昭和の初めに麻生セメントによって無残に削られたという件はともかく、福永氏が「万葉集」「古事記」「日本書紀」から読み取った九州王朝の逆説的な事実というのは膨大なものですが、以前も指摘したように、それらの解明から「神武の即位は紀元121年で、委奴国を滅ぼし邪馬台国を作った」という結論が導き出される。これを YES/NOで見てみると圧倒的にNO、また神功皇后の出自についても氏の推論はやはりNOだったのです。また、兼川晋氏の、「卑弥呼が朝鮮半島から派遣されて一旦乱が治り、その後狗奴国が再び勢いを取り戻す中で死亡し再び混乱していく頃、神武が伊都国にあって筑豊へ東征した」という説もNOという結果でした。結局大和朝廷に関しては、大芝説の年代を30年ほど遡らせるのが妥当であるという結果になった次第です。
大芝氏も、福永氏同様地元の強みを生かして「古事記」を始め「帝紀・旧辞」「風土記」などに記載された、地名・氏族名、地勢・地形・方位などを綿密に考証していくのですが、なんといっても重要なのが「九州の難波津の発見」であったということです。後述するように、663年の白村江の戦いに完敗したことで九州倭国は全滅するわけですが、その前後から一部が近畿に退避して王朝の再興を成就した時、当時の東アジア情勢の下では大唐帝国の認証が不可欠であり、唐に敵対した九州倭国とは無関係の「日本国、大和朝廷」を表現する歴史書が必要となった。そこで急きょ、九州王朝史「古事記」の冒頭に「神武大和東征、瀬戸内海経路譚」を書き入れることで、「日本国は、悠久の昔より大和にあった王朝」とした。それは、一時を憚るための方便であったにもかかわらず、いつしかその悠久の大和史観はそのまま定着し、真実を語る語り部も絶え果てたころ、虚構がそのままこの国のアイデンティティーとなってしまったと言える。室伏氏は大芝氏の業績を讃える中で次のように書いています。
戦後史学は「科学」を標榜しながら、「記紀史観の僕」としてその裏付けに精出してきた官魂からした論理で、文献論理を自ら自立させることはついになかったのだ。それは記紀史観にある狂信的な部分を排除するに功あったとはいえ、歴史を崇神や応神以後の天皇史の内に限る、戦後版の手堅い皇国史観でしかなかったのだ。
このイドラの大海の中で一市井の民間研究者が溺れることなく「古事記」からした文献論証をもって大和の前身は豊前にあったと、この列島の千数百年のイドラを突き抜けたのである。その自前の論理を臆することなくそそり立たせた勇気はやはり特筆大書されてよい。
しかし現「古事記」はその豊前王朝史を大和王朝史のごとく焼き直してしまった。ここから大芝英雄は本書で、これまでの「古事記」成立説をすべて排して、7世紀前半成立説を現「古事記」から導き出しているのは、やはり刮目すべき成果というべきであろう。
「記紀」に記載される王朝の海の玄関口は「摂津難波津」とするのを通説としますが、これが「豊前難波津」だとすると古代史の展開が通説とは全く異なる展開となり、「難波津」はこうした意味でキ―ポイントとなるとされます。九州と本州に「同地名」が並立することは多くの研究者により周知の事実となっており、「古事記」各天皇記の説話において、地名や地形・経路などが豊前の国情に適合していることから、もし「難波津」が豊前にあったとなると従来の説が百八十度転換されることになるわけです。では「豊前難波津」はどのようにして論証できるのか。最初の突破口は、「安閑記 2年九月条」にあったと大芝氏は主張します。
別に、大連に勅して云く
「牛を難波の大隅島と姫島の松原とに放って、名を後の世に残そう」
とのたまふ。
ここに引用される「難波」を特定しようとするとき必須条件となるのは、「大隅島と姫島」の二つの島の存在が前提となりますが、摂津説では大阪市内の町名たる大道町・姫島町に比定されるものの、これらは古代の島ではないことから無理があると考えるのが合理的である。大芝氏はこれは周防灘の九州側湾岸=豊前に比定するのが正しい。なぜならそこには「象徴的な二島」があるからだというのです。詳しい内容は省きますが、
「難波」とは、企救半島先端より国東半島先端に亘る約80km の円弧状の豊前沿岸(周防灘九州岸)であると見られる。その総称を豊前説仁徳記の説話では「難波の大津渡り」とある。そして「大隅島(軽島)」と「姫島」の要件の2島が両端に存在すると考証する。
とされ、これにより豊前の展望が開けたのだというのですが、このことはまた「記紀」の影響を被っていない遣唐使『伊吉連博徳書』の斉明紀 5年の引用記事に、「・・・・難波三津之浦を発す・・・・」という表現が、やはり「豊前難波津」を指すことからも証明できるとされます。これをもって史実とすると、例えば「仁徳記」に記された「難波高津宮」なども豊前となり、従来説とは全く異なる解釈になるのだとされます。
前項で私たちは、3世紀初頭という時代は南船北馬の激動の時代であったこと、卑弥呼や邪馬台国は東アジアの民族移動史の中で考察せねばならないことを見てきました。けれども、邪馬台国や伊都国・斯馬国は糸島半島にあったこと、また邪馬台国に敵対する狗奴国が阿蘇の南側に位置したことを考えると、その頃の豊前の動きはどうだったのかも考慮せねばなりません。原倭国が遠賀川上流から追われて博多湾岸に移動したのが前1世紀ですので、その後 1世紀から 2世紀にいたる間は、この地域でも南船北馬の抗争が北馬系優勢の中で決着していったと考えられます。そして、卑弥呼が表舞台に登場するころ、遠賀川上流では饒速日の天孫降臨があり、豊前ニギハヤヒ国(物部王国)が成立したのだと大芝氏は言うのです。約100年続くこの王国の終焉を4世紀以降の兼川氏の精緻な考察と矛盾しない形にするには、始まりを大芝説より 30年ほど遡った 3世紀初めとせざるを得ないし、YES/NOでもそれが妥当と出た次第です。
豊前筑豊遠賀川流域平野は、北九州の背骨三郡山脈と彦山系に囲まれた、正に青山を垣のように廻らす良き地である。その大倭国「登美毘古の遠賀湾最奥岸へ上陸した饒速日命の一軍は、土地の酋長登美毘古の臣従により、その地の白庭山宮に宮居した。饒速日命が率いた 25人物部を各地に分封したが、今にその名が地名として残存している現実がある。
このニギハヤヒ国こそ、「記紀」が隠ぺいした王朝であり、2代綏靖(神沼河耳)・3代安寧・4代懿徳・5代孝昭・6代孝安・7代孝霊・8代孝元・9代開化の欠史八代として名前のみ記されているわけです。このことが古代史を混迷させているわけですが、大芝氏はこの初代に饒速日を据えることで9代約100年の王国の全貌を明らかにしていきます。歴代の王はみなニギハヤヒを称し、登美毘古は歴代の大臣として安定していたところへ、第9代開化の時、筑紫から同じ天孫系の瓊瓊杵(二ニギ)系が侵攻し、ついに饒速日系が降伏した、これが神武東征であるということです。二ニギ系は、初代二ニギ・2代ホホデミ・3代フキアエズ・4代神武として、ニギハヤヒ系に約半世紀遅れて天孫降臨したことになりますが、ニギハヤヒ系が神武に降伏した時、豊前国内の状況が不安定であったため神武が新王朝を創始せず、第10代崇神を称したことがさらに分かりにくくなった原因だとされております。
こうして 4世紀には崇神に始まる筑豊の王朝が始まるわけですが、神武以来の王はこの後豊前に根を張ったのであり、倭の五王時代が筑紫を舞台とした特別な時代で、その後継体以後は再び豊前を舞台とした歴史が展開される。その中で一時筑紫が舞台となる多利思比孤・上宮王家全盛時代があるが、「書紀」では隠蔽されたというのが実相です。
なお、室伏志畔氏によると、神武の権力簒奪について「書紀」「古事記」「先代旧事本記」「東日流外三郡誌」で記述が齟齬するのは、この戦いは神武が決着させたのではなく、饒速日系の長髄彦見放しによる内部崩壊が主因であったためなのだということです。長髄彦は饒速日に仕えた者で、その妹三炊屋姫が饒速日の妻、その子可美真手命(ウマシマジ)がニギハヤヒ国を裏切り、長髄彦を見放して神武側に帰順する形で決着したのだとされます。そして、豊前において、原倭国からニギハヤヒ国を経て神武と王権が三変したため「倭(ヤマト)」の価値が生まれたということです。
室伏氏はさらに、「記紀」の改竄はこれにとどまらず、イザナギ・イザナミを海士族の造化神の次に置き、さらに下に三貴子(須佐之男・天照・月読=いずれもタカミムスビ配下)を唐突に挿入し、その次に神武を持ってきた点にあると続けます。何故なら、 海士族の時代による首長は、列島への到着順に、八雲王朝=大州時代には神魂命(神皇産霊命カミムスビ)、次の出雲王朝=大州と壱岐・対馬共存時代には大国主命(八千矛神)、最後の九州王朝・壱岐・対馬時代には高魂命 (高皇産霊命タカミムスビ)となるのであり、イザナギ・イザナミの出自など磤馭慮島(オノゴロ=博多湾岸の能古島)程度だとされるからです。
【参考文献】
・室伏志畔「「誰が古代史を殺したか」(世界書院)
・兼川 晋「「百済の王統と日本の古代―“半島”と“列島”の相互越境史」(不知火書房)
・大芝英雄「「豊前王朝―大和朝廷の前身」 (同時代社)
・古田武彦 「真実の東北王朝」(ミネルヴァ書房)